LOGIN病院に着いたときには、午前11時を過ぎていた。怜奈は受付もろくに見ず、集中治療室の前まで駆けた。
手術を終えた悠真は、まだ麻酔から覚めていなかった。ガラス越しに見える小さな体には、何本もの管がつながっていた。
怜奈は手で口を覆った。
「ご家族の方ですね」
移植コーディネーターが近づいてきた。
「執刀した先生から、ご説明します」
相談室で、医師は落ち着いた声で手術の経過を説明した。心臓は正常に接続され、現在の血流も安定している。けれど移植手術は、手術が終わればすべての危険がなくなるものではなかった。
「初期の拒絶反応、感染、出血に、引き続き注意が必要です」
怜奈はうなずいた。
「成功したんですか?」
医師は少し、言葉を選んだ。
「手術の段階は、無事に終えられました。ここからは回復の経過を見ていきます」
その答えのほうが、信じられた。奇跡だとも、絶対助かるとも言わなかった。
「私は何をすればいいですか?」
「今日は、ご家族も休んでください。連絡は取れるようにしておいてくださいね」
相談室を出た怜奈は、廊下の椅子に腰を下ろした。脚に力が入らなかった。
黒崎が自販機で温かい缶を買い、差し出した。今度もコーヒーではなく、麦茶だった。
「また、カフェインなしですね」
「今日に限っては、俺のほうが詳しそうなので」
怜奈は缶を受け取った。桐生が少し離れたところで電話を終えた。
「会社の予定はキャンセルしました。病院には、何も働きかけていません」
怜奈は彼を見た。
「どうして、わざわざそれを?」
「一ノ瀬さんが、嫌がりそうなので」
そのとおりだった。
「ただ、必要なら、付き添いサービスや法律相談など、病院の外のことは調べられます」
「それは、後で」
「わかりました」
神崎は、一番遠くに座っていた。病院の廊下では自分の体格が威圧的に見えるとわかっているのか、帽子を深くかぶっていた。
怜奈は手で招いた。
「どうして、そんなところに?」
「人が通るだろ」
「こっちに座ってください。一人分の場所はあります」
怜奈が少し横へずれると、ようやく蓮は近づいた。椅子一つを前にためらっていた人が、座った途端に膝をきちんと閉じるので、怜奈は少し笑いをこらえた。
「悠真、目が覚めたら俺のことわかるかな」
「テレビで見ていたら、わかるかもしれませんね」
「でも、俺を見て泣いたらどうする?」
怜奈が笑った。
「じゃあ、もう少し怖くない顔になってください」
「おい、それは美容外科に行かないと無理だろ」
初めて、大きく笑えた。
その瞬間、廊下の端から小さな騒ぎが聞こえた。カメラのシャッター音だった。
怜奈の顔がこわばった。撮影の中断と東京への移動が、すでにネットに広まっているらしかった。
芸能メディアの記者二人が集中治療室の入口へ向かい、病院の警備員に止められた。
「こちらは患者さんを守るための区域です。撮影はできません」
「一ノ瀬さん、弟さんの手術で撮影を中断したというのは本当ですか?」
遠くから質問が飛んだ。神崎が立ち上がろうとすると、怜奈は手首をつかんだ。
「座っていてください」
「あれ、放っておくのか?」
「病院が止めてくれていますから」
怜奈は自分で警備員のところへ行った。
「一言だけお話ししてから、戻ってもいいですか?」
警備員が困った顔をすると、放送局のコーディネーターが病院の広報に電話した。数分後、集中治療室から離れた一階ロビーで、短く説明することになった。
怜奈は、四台のカメラの前に立った。
「家族の医療情報なので、詳しくお話しすることはできません」
声は震えていたが、隠さなかった。
「撮影は制作会社と相談して、一時中断しました。今は弟の治療が優先です。病院や他の患者さんのご迷惑にならないよう、ここでの撮影は、これ以上お控えください」
記者の一人が尋ねた。
「男性出演者三人が、全員一緒に来た理由は?」
怜奈は三人を振り返らなかった。
「それは番組で、それぞれに聞いてください」
記者の間に笑いが起こった。
「それから、昨日の撮影地でのプライバシー侵害については、現在確認が進められています。確認されていないことを、推測で報道しないでください」
そう言い残して、怜奈は背を向けた。黒崎が低い声で言った。
「よくできました」
怜奈は首を振った。
「よかったのか、わかりません」
「カメラの前で、わからないことは、わからないと言えたでしょう」
彼は笑った。
「それは、思うより難しい演技なんです」
怜奈はそこで初めて、自分が今、初めて台本なしでカメラの前に立ったのだと気づいた。その日の午後から、病院は怜奈の移動経路も別に管理することになった。
芸能人を守る特別待遇ではない。集中治療室の前に取材陣が集まると、他の家族の迷惑になるからだった。怜奈は広報担当者に、先に言った。
「私のせいで、警備の人を増やすのは嫌なんです」
「ですから、出入りする時間を少し調整するだけです。他の患者さんを守るのが優先です」
その説明を聞いて、ようやく怜奈は受け入れた。三人の男も、病室のある区域まではついてこなかった。
面会できる時間と人数に合わせて、外で待っていた。
その夜、怜奈は一人で、悠真の手をほんの少し握った。
まだ麻酔から完全には覚めていない弟が、ごくわずかに指を動かした。
「姉ちゃん、来たよ」
怜奈が言ったのは、それだけだった。約束も、奇跡の話もしなかった。
今は、生きているその指先だけで十分だった。
相沢との訴訟資料を整理していると、おかしな数字が見つかった。元の事務所が怜奈に請求した保証債務の元本と、当時の会計帳簿にある支出額が合わなかった。差額は800万円。最初は単なる利息の差だと思った。弁護士は、会計資料をもっと確認しようと言った。「桐生社長に見せてもいいですか?」怜奈が聞いた。「個人情報を伏せて、正式な助言ではなく意見を聞くだけなら、ご本人で判断してください。ただし、法的な判断はこちらで行います」怜奈は機微な情報を消し、数字の表だけを桐生に見せた。彼は5分間、何も言わなかった。「これは、会計士に見てもらうべきです」「社長には、わからないんですか?」「見ることはできます。でも、私が結論を出すべきではない」何か所か印をつけた。「支払日と貸付金の計上日が違います。一部は会社の運営費と混ざっています。独立した会計士に、資金の流れを組み直してもらってください」「お金、かかりそうですね」「かかるでしょう」怜奈はため息をついた。桐生は、自分が払うとは言わなかった。代わりに、こう言った。「差額が800万円あるなら、訴訟費用との兼ね合いで調べる価値があるか、まず弁護士と計算してください」「やっぱり計算」「お金の問題ですから」***怜奈は弁護士と相談し、範囲を絞って外部の会計士に調査を依頼した。
翌週のドラマ撮影は屋外だった。病院の屋上という設定の場面を、実際の建物の屋上で撮った。風が予想以上に強かった。安全担当は手すりから二メートル内側に動線を引き直し、照明スタンドには砂袋を追加した。リハーサル中、台本が風で飛ばされ、怜奈は笑った。「これ、芝居より紙をつかまえるほうが難しいですね」相手役も笑った。撮影は問題なく進むように見えた。そのとき、補助照明のスタンドが一本揺れた。「ストップ!」安全担当が先に叫んだ。撮影は即座に止まった。スタンドは倒れなかったが、固定クランプが一つ緩んでいた。怜奈は遠くへ下がった。その日、番組の撮影を休んで自分の練習を終えた神崎は、軽食の差し入れを手配しようとして、現場のことを知った。直接駆けつけてはこなかった。代わりに、メッセージが届いた。【大丈夫?】【うん。撮影を止めて点検中】【けが人は?】【いない】【じゃあ、安全担当の言うこと聞いとけ】最後の一文に、怜奈は笑った。以前の彼なら、誰が管理していたのかを真っ先に問い詰めただろう。***点検の結果、クランプ自体が老朽化していた。機材会社は同じ型をすべて交換すると決め、制作側は午後の撮影を2時間遅らせた。損失は出た。それでも、時間がもったいないと強行する人はいなかった。監督が俳優たちに言った。「待たせて申し訳ないけど、
延長期間の半分が過ぎた頃、制作側が初めて最終回の構成を明かした。最終日、出演者は『番組が終わってからも会いたい人』を一人ずつ書く。相思相愛なら、カメラの前で短くデートの約束をする。交際の強制ではない。それでも、一人という条件は残っていた。怜奈は長い間、紙を見ていた。担当プロデューサーが聞いた。「負担ですか?」「はい」「形式そのものを変えるのは難しいです。ほかの出演者も、同じルールなので」「わかってます」怜奈はすぐに争わなかった。番組は番組だ。ただ、自分がどう答えるかは、別の話だった。***その夜、三人は不思議なほど静かだった。神崎は、怜奈の気持ちが一人だけに向いていないことを、もう知っていた。黒崎と桐生には、まだ直接伝えていない。いつまでも先延ばしにはできない。怜奈はまず、黒崎に声をかけた。「少し、お話ししませんか」撮影の終わったバルコニー。怜奈はドアの取っ手を触っていた。「私、神崎さんには、もう言ったんです」黒崎の表情が、ほんの少し硬くなった。「何を?」「好きだって」短い沈黙。怜奈は逃げなかった。「でも、黒崎さんも、桐生社長も好きだって、一緒に伝えました」黒崎はしばらく黙っていた。
ドラマ二度目の撮影は、救急外来のセットだった。怜奈の出番は多くなかったが、初めて感情の大きく動く場面があった。交通事故の患者の家族が、医療スタッフに怒鳴る。怜奈の演じる佐倉由衣は、その家族を落ち着かせなければならない。リハーサルで、相手役が予想以上に強く手首をつかんだ。「カット」監督がすぐに止めた。「手首をつかむ動きは、打ち合わせになかったですよね?」相手役は申し訳なさそうにした。「感情が高ぶって、つい」怜奈は手首を回してみた。「大丈夫です」監督が尋ねた。「この動き、残します? 嫌なら外しましょう」怜奈は少し考えた。場面には必要に見えた。「残して大丈夫です。ただ、場所を決めて、力は抜いてください」アクション担当が二人の間に入り、つかむ位置と離すタイミングを合わせた。再び撮影。相手役が手首をつかむ。今度は、予想した強さだった。怜奈は無理に振りほどかなかった。「ご家族の方」低い声。「お気持ちはわかります。でも、中に入られると治療が遅れてしまいます」相手役の目が揺れた。怜奈は一歩も引かなかった。カット。監督がモニターを見て言った。「いいですね。今は力じゃなく、踏みとどまっているのが見えました」&nbs
相沢側から本物の訴状が届いたのは、初撮影の2日後だった。今度は内容証明ではない。裁判所からの書類だった。専属契約が有効なのに、怜奈が無断で番組とドラマに出演し、損害を与えたという主張。請求額は3000万円。数字を見ても、以前のように息が詰まることはなかった。「弁護士に送ればいいんですよね?」桐生がうなずいた。「答弁の期限を確認して、従前の事件との併合や関連性についても、弁護士が判断するでしょう」神崎が紙をのぞき込んだ。「本気で3000万払えって?」「請求したから認められるわけではありません」桐生が説明する。「相手が主張している金額です」「じゃあ、3億って書いてもいいんだな?」「訴訟と競りを混同していませんか?」怜奈は笑ってしまった。深刻な状況なのに、二人のおかげで少し緊張がほどけた。***弁護士とオンラインで打ち合わせた。争点は単純ではなかった。怜奈が契約解除を通知した時期。事務所が報酬の精算とマネジメントの義務を実際に果たしていたか。社長が連絡を絶っていた期間。なぜ保証債務を怜奈個人が負うことになったのか。相沢側は、会社を整理している間も契約は続いていたと主張した。怜奈側は、長期にわたる義務の不履行と未精算を根拠に、すでに解除されたと反論した。「結論までは、時間がかかるかもしれません」弁護士が言った。「その間、新しい作品に出られなくなりますか?」「相手が別途、仮処分を申し立てることはあり得ます。ただ、現在の訴状だけで自動的に活動が止まるわけではありません。申し立てがあれば対応します」怜奈はメモを取った。不確かなことは不確かだと言ってくれる説明にも、慣れてきた。***問題はドラマの制作会社だった。先に訴訟の記事が出たため、制作チームから連絡が来た。――出演契約の権利関係だけ、確認させてください。撮影中止を決めたわけではありません。怜奈は弁護士の意見書を受け取り、制作会社に送った。現在、専属契約を巡る紛争中ではあるが、第三者の作品への出演を禁止する裁判所の決定はない、という内容だった。翌日、制作会社から予定どおり撮影するとの返事が来た。メールを見て、怜奈は息を吐いた。誰かが会社を買って解決したのではない。書類に別の書類が答え、その間に1日が過ぎた。その1日、怜奈は何もできなくなるのではないかと、ずっと不安だ
初撮影の日、午前4時半。宿舎のキッチンは、もう明かりがついていた。神崎が鶏むね肉を焼いていた。「寝てないんですか?」「練習に行く」「こんな時間に?」「お前だって撮影だろ」二人は少し見つめ合って、笑った。神崎が小さな弁当箱を差し出した。「持ってけ」「鶏むね肉は嫌です」「卵もある」「それはもらいます」「むね肉も」「嫌です」結局、怜奈が持っていったのは卵二つとバナナだけだった。それが二人らしかった。***撮影所は、首都圏近郊の廃病院を改装した場所だった。怜奈はメイクを受け、衣装に着替えた。最初は、廊下で主演に検査結果の用紙を渡す短いカット。台詞は二行だ。それなのに、カメラの前に立つと、オーディション以上に緊張した。四十人ほどのスタッフが、自分の動きを待っている。「リハーサルいきます」助監督の声。怜奈は決められた動線どおりに歩いた。一度目は早く止まりすぎた。カメラのピントが合わない。二度目は、手に持つ用紙が画面の外へ出てしまった。「大丈夫。もう一度」監督はいら立たなかった。怜奈は息を吐いた。俳優は、台詞がうまければいいわけではない。カメラの位置、光、相手役、小道具、動線。全部を同時に合わせなければならない。三度目のリハーサルで、正しい位置に止まれた。本番。「ご家族の方、検査結果が出ました」主演が用紙を受け取る。怜奈は、相手が読む間、一拍待った。監督の声が飛んだ。「カット。いいですね」終わり。あまりに早く終わり、拍子抜けするほどだった。***問題が起きたのは、午後の場面だった。同じ廊下を走る、緊急時のシーン。エキストラの一人が、濡れた床で滑って転んだ。大きなけがではなかったが、撮影はすぐ止まった。安全担当が床を確認した。清掃直後の水が残っていた。怜奈は自分の靴底を見た。滑り止めのパッドが、すり減っていた。「私も、これを替えたほうがよさそうです」衣装スタッフに伝えると、すぐ新しいパッドを貼ってくれた。監督は動線を、走る動きから早歩きへ変更した。ドラマなら、誰かが身を投げ出して助ける場面かもしれない。実際の現場では、事故を止め、原因を取り除いた。そのほうがプロらしい、と怜奈は思った。撮影が終わったのは夜9時だった。宿舎へ戻ると、三人はそれぞれの仕事を終えていた。黒崎が聞いた。「初撮影はどうでした







